たまごかけごはん

リトリーブサイコセラピーを勉強中(プロコース卒業済み)です。講座で勉強したことや、自分のあゆみを振り返ってまとめています。

華麗なる投影

向き合いたくない人がいる。

それは自分を投影しているから。

何度も何度も繰り返し、投影が起こる見事なカラクリにハッとした経験をしても、まだ、華麗に投影を起こしては先に進めない、と唸っていることが多い。

 

あー、あの人に会いたくないなぁ、と思うとき、心の中では「あの人」に反応してる部分が必ずある。

 

今回のわたしの場合、

  • あの目が怖い
  • 声が心地悪い
  • 心の中の本人がずっと悲鳴をあげているのが分かる

だから、会うのにとてもパワーがいる。境界線を何重にも引かないと、その人が持つパワー(ネガティブな意味)に飲み込まれてしまいそうになるのが自分でわかり、会って話しているのがひどく居心地が悪いのだ。

それは、その人が悪い訳では無い。悪い訳では無いから、わたしの「いい人」の部分が「がまん」してあげようとして、ドツボなのだと思う。

 

わたしはまだ、そういう人に向かったときに、平気な顔をすることが出来ないのだ。そうなのだから、それでいいか、と思えばいい。そういうことなのかもしれない。

 

海の青や、水の音を美しいと感じることと

自然を体感することを美しいと思うことと、写真のなかにある洋服のスタイリングや、表情をいく通りにも彩るメイクの力に感動することは、対等に認めても良いのか、についてこの3ヶ月くらいずっと考えている。

 

認めたいのだ。

いや、認めたいという気持ちを、認められたいのだ。

バラバラの自分の正体

ずーっと持っている自分のテーマに、「バラバラの自分」というのがあります。

少し前までのわたしは、自分の軸がなく(今も探し中)、その事に気づきもしていなかったので、自分というものを常に無意識に探し続けていました。

そのため、多種多様なコミュニティーに顔を出すことになり、知り合いだけはべらぼうに多い、という状態でした。

 

さらにタチが悪いのは、もともとのコミュニケーションの癖のせいで、コミュニティーに合わせた自己を作り出してしまい、顕在意識ではもう手に負えないくらい、作り出した自己が独り歩きをしてしまっていました。そのせいで、パワーを異常に消耗してしまって疲れきっていました。

 

リトリーブを勉強しはじめてから、ある程度関わるコミュニティーを減らし、ひとつひとつにかける時間を長くとるようにしてきました。

 

それでもまだ、バラバラの自分を感じることがあり、口癖のように「まとまらない、まとまらない」と言っている日が続いています。

 

この前、セッション練習の際に「小さい頃に家族の中で、自分の気持ちを表現することが叶わず、両親と祖父母というわたし以外の四人の家族それぞれに対して、自分を使い分けて接していた」ということが分かり、少し手がかりが出てきたなぁと感じました。

 

この自分の行動のベースは、解離や多人格のせいではなく、複数のコミュニケーションを同時進行させることが生きること、と認知してしまっていたことが原因なのかも知れません。

そしてそれは、自分の意思が通せなかった、母親との共依存によるところが大きいのかも知れません。

 

そう思い込んで、頑張り続けてきたわたし自身を認め、「もう頑張る必要は無い、自分の意思に反した行動はもうとらなくてもいい、気持ちに素直になって表現してもいい」と、自分に分かってもらうところから、はじめたいと思います。

 

 

経験や意識を「軸の自分」に統合する

茂木さんのブログはいつも、方向のヒントを与えてくれる気がして好きです。

http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8315808.html

 

リトリーブを学び、自分の愛着の傷を知り、過去のトラウマに気づき、それと向き合っていくことを意識し始めた時に、これまでの自分はほんとうの自分ではなかった、みたいな感覚になってしまっていました。

 

新しいわたしになる、みたいな事に躍起になっていて、それは「away from」になっていたのではないかなぁ。

私はいつでも私なのに。わたしの生い立ちも、トラウマも、両親や家族の存在もぜんぶ含めてわたしなのに、そこから逃げようとしていた。否定しようとしていた。そういうことなのです。

 

わたしにとって、経験や意識を、「軸の自分」に統合することがどれほど難しいことなのか、今になって身をもって感じています。

 

リトリーブの中で学ぶことを、現実から切り離してしまっていた(もしくはそちらを現実に、日常を切り離してしまっていた)ので、自分の今の日常にリトリーブがうまく統合できていない。そんなことが起こっています。

 

気づけてよかった。ここがずっと宙に浮いてたんです。あとは取り組むだけ。

2017年の自分について

2017年になりました。あけましておめでとうございます。

 

12月の途中まで、プロコースを卒業したことで浮き足立っている感覚がありましたが、1ヶ月が経ち、日常に返っていく過程で、また新しい気付きなどと共に日々を過ごしています。

 

1ヶ月前のわたしは、プロのセラピストになる?なれる?わたしの経験を誰かの為に使えるのでは?みたいな考えがありました。そこに思考を集中してしまい、結局「わたし」はおいてけぼり。気付いたのでよしとしましょう。

 

そういう思考に行きついた原因を探しました。みんなが思う癒しの過程を、みんなのように経なければならない。そう思っていたのでしょう。いつも「みんな」を使ってしまうけど、わたしの中のみんなって、なんだろうなぁ。無意識の中の「こうあるべきという役割」なんだと思います。

 

もうそれはしんどいなぁ。

わたしには、私の人生があるんだよなぁ。自分で感じて考えて作っていきたいよ。

 

セッションを受けるにしても、なんかブレてたと思う。まずは目標をもって、そこへ向かうのをせき止めているブロックを見ていく、っていう方法がいいのではない?

 

そもそも、ありたい姿が見えない見えない、って、それすらも「みんな」のレールに乗ってしまっているのではない?

わたしは知ってるはずなんだよ。わたしがやりたいこと。それを見つけるのはセッションじゃないよね。そして、それが無いことにはセッションもスカるはず。

 

まずは、小さな目標から、積み重ねていこう。コツコツ諦めず、積み上げることをやってみてもいいんじゃないかなぁ。

 

その時に絶対に忘れないこと

  • 今が嫌だからこうなりたい
  • 誰々が嫌いだからこうしたい
  • 誰々のようにしたい
  • こんなことやってる自分はすごい
  • 人からの見栄えで選ぶ
  • 媚びる

これらはNG。気をつけてとりくもうね、わたし。

嫌な気分に埋れてしまわない心のタフさとは

忘年会シーズン真っ只中です。

年に、この時だけ会うような人とかも沢山いますよね。去年は絶賛リトリーブ基礎の葛藤中だったので、そんな場に出ていくこともほとんどありませんでした。

それはそれで、嫌な気持ちになることもないから良かったのですが、今年もそうやって過ごすのはどうなのかな?と自分の中で違う感覚があったので、忘年会には積極的に出かけました。

 

今までなら、きっと自分の身の上を切り売りして、場を盛り上げることに違和感もなかったであろうと思います。そして、その後どっと疲れたり、もやもやして嫌な気分になっていたと思います。

でも、今回はその時点で違和感を感じている自分がいました。結論として、やってることはこれまでと同じだったかも知れません。でも、自分のこういう気持ちに気づいて、客観的に考察し、自分がその行動をとってしまった理由が分かるので、切り替えもできるようになっている自分がいます。

この変化は大きいです。

 

自分をわざわざ落として、相手を楽しい気持ちにさせる、というのがわたしの癖です。この場合、わたしが「私を落とす」というところにこだわってるだけなので、相手は楽しくない場合も多いと思います。

長い人生、わたしは、私を自分で落とし続けて自分の居場所を確保し、そんな場所に居続けることを心のどこかではその場所を否定している、そんな状態にありました。

 

もう、そういうことをしなくても、自分のなかに自分の居場所はあるし、わたしが誰かにとっての大切な場所になることだって出来る。

 

それを感じる12月末です。

(抽象的になってしまったので、あとでまた直そう)

性虐待の記憶はいつか戻る時がくるのか

記憶をさかのぼると、はっきり映像として思い出せるのは小学校2年性の時に、全校集会の時にシーンとした体育館で突然叫んでしまい、先生が走ってきてわたしをビンタした時です。はっ、と目がさめるようにびっくりしたと共に、とても悲しい気持ちになったのを覚えています。

 

小学校の低学年くらいまでは記憶が断片的にしかなくて、あとは写真をみて思い出を記憶した、ような感覚で自分の中に残っています。特に5歳くらいまでの記憶は皆無です。みんなそんなもんだろうと思ってましたが、そうでもないようですね。

 

セッションを何回も受けてきて、何度もその時の感情が蘇り、その度に苦しさを感じてきたけれど、結局1年半経ったいまでも、光景は顕在意識にのぼってくることがありません。

 

人は恐怖に対して、それを見えないようにしまいこむか、もしくは恐怖に対する対処を取れるように見えていたいか、どちらかなのではないでしょうか。もう半分見えているような状態で、しまいこみ続けることができない今、見ることもできない状態で過ごしているのは、実はかなりのストレスだなと最近は感じています。

 

いつ思い出すのか分からない不安が、常につきまとっていて、自分を怖がらせることはしたくないと思いつつも、内観するときに「この感情を強めてしまうと、もしかして、、、」という壁にぶつかってしまい強くなって止める。という繰り返しになってしまうことも、少なくありません。

 

いつか、その光景をありありと思い出してしまっても、わたし自身が耐えられるほどに心を柔軟に育てていくことができれば、思い出す日もやってくるのかもしれません。